『彼岸過迄』

久しぶりに文学。

『彼岸過迄』 (夏目漱石著、集英社文庫、2014)

1912年連載。

人気の夏目漱石だが実はよくわからない。

作者自身言っているように自分は自然派でも象徴派でもネオ浪漫派でもない

自分らしい物が書きたいだけだと、そうであろうがなんともこの『彼岸過迄』は難解。

彼は何を言いたいのか。

実は夏目漱石はドイツのETAホフマンの影響を大きく受けているのだろうと以前から感じていた。

ETAホフマン(1776-1822)はドイツの作家だがその影響は

プーシキンやドストエフスキー、デュマ、モーパッサン、ミュッセ

それはそれは書き出せないぐらいに各国の文豪に影響を与えている。

心理学のフロイトも・・・・

夏目漱石の『吾輩は猫である』もその作中で

ホフマンの『牡猫ムルの人生観』のムルを眺めている。

影響を受けているのか偶然といいたかったのだろうか。

そしてこの『彼岸過迄』の一文には「自分だけ硝子張りの箱の中に入れられて・・」(p86)と

『黄金の壺』のアンゼルムスかと思う箇所があった。

それならばホフマンのフイルターをかけてこの作品を読むことにしよう。

まず最初に登場する主人公敬太郎と同じ下宿の奇妙な森本という人物。

彼は知らぬ間に姿を消すのだが、去ったあと下宿の傘入れに一本の洋杖を残す。

森本が作ったという蛇の頭の彫刻の洋杖は、ホフマン流に言えば興味からの閃きや

空想世界の入口に導く道具のようだ。

主人公敬太郎は森本からその洋杖を譲ると言われ困惑する。

しかしそのうち、いろんな場所へそれをもって行くことになる。

非現実や精神の働きを描きそうな場面で

「烟の出る味噌汁碗の蓋を取ったとき・・・」(p101)とか

占いをする婆さんが登場する(p96)。

しかしなんとなく目的が中途半端な表現。

作者は主人公に言わせる通り、

『自分はただ人間の研究者否人間の異常なる機関が暗い闇夜に運転する有様を

驚嘆の念を以て眺めていたい』(p49-50)だけらしい。

異常なる機関はなんであるか?やはり精神の働きと考えた方がいいだろうが・・・。

作品には敬太郎の友人の市蔵や市蔵とは血のつながりのない従妹千代子との関係、

そして市蔵が嫉妬の対象とした高木の存在などが淡々と繰り広げられるが

森本の謎の行動や市蔵に降りかかる親族との問題も主人公敬太郎にすれば

ただ客観的であり自分の上を影響なくとおり過ぎていく人世の物語である。

「いずれも薬罐頭を攫むと同じことで、世の中は少しも手に握れなかった。

彼は碁を打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。

そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波蘭曲折のある碁がみたいと思った。」(p87)

敬太郎も市蔵もロマンチストであり、社会から脱落しているわけではない。

それよりも教育を受けた書生。

自分が能動的に働きかけるより、なにか面白い人世を見たいと思う。

世の中をつかみきれなくて、ただ漂っているだけのようだ。

森本の洋杖は彫ってあるのはただ頭だけで「その頭が口を開けて何か呑みかけている

ところを握りにしたものであった。けれどもその呑みかけているのが

何であるかは、握りの先が丸く滑っこく削られているので、蛙だか鶏卵だか誰にも

見当が付かなかった。」(p61)

森本も世の中をつかみきれずにいる。

社会の中で痛快だと思えない現実。

登場人物がすべて世の中に漂っている。

登場人物とともに何かもがく作者が見える。

彼岸過迄と日程を定めた作品で、

漱石にとって自分の書きたい作品に仕上がったのだろうか?

私も登場人物と同じように何物も手に握れない。

個人的には夏目漱石がこの後発表した『行人』が彼の作品で唯一好きな作品だが

とにかく夏目漱石の人気に私は追いつけない。







スポンサーサイト

太宰治 『斜陽』

久しぶりに一気読み。

やはり太宰治。

先日NHKの番組『100分de名著』でこの作品はある女性の日記の下書きがあると

言っていましたが参考にしたとしてもやはり読みごたえあり。

最初の書き出しから独特の世界。


登場人物すべてが古い道徳の過渡期の犠牲者として描かれています。

人間の生活はほとんどがただ幸福の足音が近づくのを

待っているだけのからっぽという主人公かず子。

そうかも知れない。

そう言われれば、私もいつも何かを待って暮らしているかもしれない。


この小説は「母娘関係」に主眼が置かれていると言われるがそうとばかりは言えない。

かずこの弟直治にとっても母の存在はそれ自体理性である気がする。

華族の家系の上品な母親は二人にとって神のようにあらわされている。


直治は上流階級の出自に苦しめられ、母親が亡くなってから自殺してしまう。

かず子の自己を見つめる鏡として蛇が登場している。

心の葛藤を母に見透かされている不安に駆られていると庭に女の蛇が現れる。

母親の存在は神というより古い道徳そのものなのかも知れない。


かず子は母親と弟を失ってから道徳革命を開戦する。

かず子の女性の自立の勇気に拍手を送りたいけれど

ただ残念なのは、かず子が「こいしいひと」だと思い続けた人と

初めて向かいあえた時には恋は消えていたことだ。

それはかなしいかなしい恋の成就であったけれど、かず子が求めていたわが子を授かる。

『こいしいひとの子を生み、育てることが私の道徳革命の完成なのです』と彼女は言う。

かず子の道徳改革の闘争が社会の犠牲者である弟直治の悔しさも背負って

小さな犠牲者わが子と共にはじまると言うところで小説は終わる。


チェーホフの『桜の園』のようだけれど

いつの時代も流れて行くのです。


個人的には日常の忙しさに何も考えずに生き急いでいるけれど、

何か一つ自分なりに道徳を壊してまたあたらしく再生するというのも生きた証になるんでしょうね。

そんな意識をもって暮らすのも悪くないね。

昔からいいと言われている道徳もよく考えると

今の時代に合わない部分もあったりするんですよね。




内田百閒『ノラや』

『言海の言海流の語源の穿鑿に依ると、猫はよく寝るから寝子だと云う事になる』

(ちくま文庫『ノラや』p49)

そうなんだ・・・・

久しぶりに文学をメロンボールに盛り付けましょう!

ノラや


日本の作家の中で一番好きな作家は内田百閒です。

私はやはりドイツ文学の影響が色濃く出てる作家が好きなんでしょう。

百閒にも思い違いやふとそう見えるといった描写が多く出てくる。

何となくハッキリしない人間のそういう不思議な瞬間こそETAホフマンが

追及したかった精神で、百閒の作品にも同じものを見ることができる。

この『ノラや』にも得体のしれないものが自分の心に突如現る。

自分の心が映し出すそれらは不思議であり不思議でもない。

                   

百閒は鳥好きで鳥を家で飼っていた。そのせいで猫が嫌いであったけれど

あるとき乳離れしたかしないか位の野良猫が家に入ってくるようになる。

ノラである。

前後の事情から百閒は「この野良猫を野良猫として飼ってやろう。座敷には決して

入れない事にすればいいだろう」と妻と決める。

これ以降、百閒の生活はどんどんノラ中心に回っていく。可愛くてたまらなくなるのだ。

だんだん家族の一員となっていったノラが

昭和32年3月27日、突如いなくなる。

尋ねネコの新聞の案内広告や折り込み広告チラシ。

外国人に拾われてないかと英文まで作る。

はてはNHKのラジオ放送でも流れる。

ノラがいなくなっての毎日の様子がこの『ノラや』につづられる。

一人でいればあたりかまわずわあわあと泣き出す始末。

ノラがいなくなってからの内田百閒は寝られなくなり

だんだん体も痩せて眼も見えなくなり廻りの人たちの心配も尋常ではない。

ノラに似た猫「クルツ」をのちに飼うことになるのだが

可愛がったクルツも病死する。

クルツはノラの兄弟ではないかと思うほど似ていたらしい。

しかし百閒の心には最後までノラがいた。

いつまでも帰ってくるんではないかと思い続ける。

最後に書いている。

「ノラや」はつい口を出てくる一人ごとになったと・・・

何か片付かない気持ちのとき「ノラや」と口をつく。

文豪百閒の書いた日常はさすがである。

毎日書くメロンのブログに百閒の文才の少しでも分けて頂ければと強く思った。

そしてもう一つ

私は移動が多いので、動物を飼うのは控えているが

飼うと百閒のように身も心もぼろぼろになるだろうな。

折り込みチラシだって書くかもしれない。

百閒はそういった状態でも文をかくという太い柱があるけれど

何も特技がないメロンではぼろぼろになるだけか。




石山寺と徳田秋声『新世帯』

源氏物語     石山 紫式部

先日、滋賀県の石山寺に行ってきました
石山寺は紫式部が『源氏物語』を書いたとされる有名なお寺です。
このお寺は昔からいろいろな文学作品に描かれてきたので
一度は行ってみたいと思ってました。

写真の小さな部屋は紫式部がこの窓??から景色を眺めイメージを広げ
源氏の華麗な世界を書き表した部屋だと伝承されています。

こんな狭い部屋でかいたの
暗くてちょっと怖い部屋でした


                       

今日は日本文学から徳田秋声『新世帯』をメロンボールに盛りつけます。
この小説は、明治41年に書かれた酒屋を営む新吉とお作という若い夫婦の物語。

お作はただただ受身で、能がないとののしられ、
消極的に生きる女性として描かれます。
でもその内面は、いろいろなことを思う生の女性。

けなげです。 

家業を第一と考える夫、新吉は、
やさしくすることは女性をおだてることと思い、
その言動は手の裏を返したようにころころ激しく変わる。

   お作のとりえは
   「気立てが優しいのと、起居がしとやかなのと、物質上の欲望が少ない」  
   ことだけという。

えー。これだけでそろってたら
完璧に近いと思うんですけど
これだけそろえば、あとは男性の育て方一つと思うんだけどね・・・

お作はただ「鈍い機械のように引き廻されていました

何も言わないお作にいじらしさと歯がゆさを感じますね。
コミュニケーションなどとは遠く離れた世界です。


                        

いつも思いますが、こんな世界は夢物語じゃなく、
本当にこういう時代があったということ

機械のように夫から引き廻されたんじゃ、
現代の女性は誰一人結婚しませんね。
きっと

妻も今じゃ人間ドックで健康管理もしてもらい
大事にされてますね
感謝です!
ところでメタボ検診って、どうなの?
もっと慎重にウエスト測ってほしいな~
この数字あってる?こんなにあったけ

この暑さと泉鏡花『外科室』

ありました

鉄砲水          有馬サイダー

以前ブログにも書いた思い出のサイダー。
復刻版かな~
この暑さ、あまりの暑さにダウンしている人も多いんでは・・・
冷たいものの飲みすぎはいけないけど、どうしてもね。
喉をうるおします。うぅっ
こんなの飲んでるから夏太りするんでしょうね~

        
                           

今日はちょっと冷っとしようと泉鏡花『外科室』をメロンボールに盛りつけます。
神秘的作品で知られる、泉鏡花は『高野聖』で有名ですね。
唯美的で、美しい人生の幻影を描きます。

『外科室』は明治28年の作品。耽美的、ヒューマニズムあふれる作品ですが、
ちと恐ろしいです。

親族にはそうそうたる位の人たちがいる伯爵夫人。
ひそかに心に思うのが高峰外科科長。
親族が見守る中、胸の切開手術をすることになりますが、
夫人は麻酔を一切拒否するんですね。

麻酔をして夢うつつの状態で、ひょっとして
自分の本心をうわごとでいうようなことが
ないかと不安におびえていたのです。

そんな不安よりは激痛の方を選ぶというわけです
激痛って言ったってね、限度があります


麻酔なしの大手術が施されます
美しい伯爵夫人が純潔なる白衣を着て手術台に横たわる様子、
手術が始まる緊張感

鏡花の冴えわたる筆は、凛とした外科室の冷たい空気と
外科医と伯爵夫人の熱い思いを描きだします。

いたそう~

地位や社会的階級が存在しなければ、結ばれたであろう二人を
幻想的に描き出します。


                       


まぁ。それにしても麻酔をかけなくてもうわごとを言ってる私は
麻酔をかけても一緒かも・・・
この暑さでうわごとも上昇中です




     
FC2カウンター
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
こびとさんの時計

ふたりに触れないで~

フリーエリア
banner-himawari2.jpg
プロフィール

メロンボール

Author:メロンボール
どこにいてもマイペース。
とっても天然メロンです。

なおブログの引用、転載お断りいたします。

カテゴリー
リンク
最近の記事
月別アーカイブ
ブログ内検索